学びはビジョンから。【学習する学校】
この本、全16章880ページにもなる分厚い本の第1章のなかに、「学習はビジョンによって引き起こされる」という言葉があった。
動きたいからハイハイをする、遠くに行きたいから自動車の運転を習う、孫とメールをしたいから苦手なコンピュータを学ぶ。
できないことであろうが、苦手なことであろうが、したいというビジョンがあれば人は学ぶし、それは教えられなくても、赤ん坊の時から自分でするし、年老いてもやめることはない。
それなのに、学校に入るとそれぞれの欲求や向上心とは関係のない目標が与えられる。
学校はこういうものだと思っていたし、疑問は持っていなかった。
事実、教員の時もそうしてきた。
でも、ある時からすごく違和感を持つようになった。
学校では「どれだけこどもの意欲を引き出すか」が重要視され、先生たちは日夜研究し実践している。
それ自体は涙ぐましい素敵なことかもしれない。
けど、いかに手のひらの上でこどもを コントロールし、学校で教えられることがいかに有用で楽しいことかと思い込ませるかに心血を注いでいるように思えた。
たしかに、有用だし、覚えておいて損はない。
でも、面白いと思えない子もいる。
わからない子もいる。
学ぶ気がさらさらない子だっている。
その子たちは一体何を学ぶのか。
面白くないけど、面白くないと言えない。
他にしたいことがあるけど、言えない。
わからないけど、言えない。
そうやって、黙ること、我慢すること、合わせることを学んで、したいこと、希望を失っていくような気がする。
楽しそうにしている子達も、本当にそう思っているんだろうか。
そう思いこまされているのではないか。
そう見せないようにしているのではないか。
諦めてしまったのではないか。
ヒドゥンカリキュラム(意図せず学ばせてしまうこと)の授業が大学で学んだが、システムや同調性が引き起こすこういったことは、全く出てこなかった。
今思えば、大学で習うことの全てが、今の学校教育のシステムは間違っていないと言う前提で話が進んでいる気がする。
現場で働く先生たちもそうだ。
一生懸命な先生は多い。
教育技術に関しても、自分なんかは足元に及ばない先生だってたくさんいた。
でも、この部分に疑問を感じ、話そうとする先生は自分のいた現場では見たことがない。
システムに対して盲目的すぎるように思う。
批判的思考をいかにして学ばせるかということが言われて久しいが、学校の先生が学校を批判的に見れているのかと言うと、どうなのだろう。
校内研究とか、国語の教え方がどうとかよりも、みんなで突き詰めた方が、より良い学校になると思うのになぁ。
なんか愚痴っぽくなってしまったような気もするけど、やりたいことを実現させられる学校になったらいいなと思う。
【新年】今年の抱負【あけましておめでとうございます】
あけましておめでとうございます。
昨年は自分の人生においては、大きなターニングポイントになった年だったように思います。
9月から始めた仕事も、ようやく慣れてきた感じがあります。
これからは、いかに自分の力を役立てていくかというところにシフトしていけたらと思います。
けれど、正直、自信がない部分もあります。
自分より経験ある人もいる。
自分よりいろんなことを知っている人もいる。
自分より繋がりを持っている人もいる。
自分より行動力がある人もいる。
自分なんかに何ができるんだろう…
なんて思ってしまう自分がいることも事実です。
部分底にですがね。
こうして、他人と比べないと自分の位置や価値がわからないというのは、これまで受けてきた教育の果てなんだろうなと思います。
まずは、やりたいことをして、楽しんでいきたいですね。
せっかく、それができる環境にきたのだから。
今年の抱負ってほどでもないですが、
「やりたいと 思ったことは 即実行」
で、いこうと思います。
続かなかったら続かなかったで。笑
とりあえず、本読みながら、思ったこと書いて、日々の生活をふりかえれたらいいなって思います。
まずはこれ、読みます。
2学期が終わる
2学期から働き始めた今の職場も、いよいよ終わり。
新しい環境に慣れることばかりに意識がいって、気がつけば冬休み。
ぜんぜんふりかえれてない。笑
新しい職場は、自由で、面白い人たちが多い。
大人もこどもも。
こどもたちは自由で、自由すぎて、そこで働く大人としては困る時もありつつ、でもそこで自分がどんな関わりをしたいのかに立ち戻れて。
未熟な自分に気付かされる。
「こどもは未熟な大人」ではないっていうけれど、大人の自分だってまだまだ未熟だし、大人とこどもの線引きは未熟さではないんだろうなと思う。
大人たちはみんな得意なこと、好きなことがけっこうはっきりしていて、個性豊かな職場だなと思う。
そんな中で、自分は何ができるんだろうかと最近よく考える。
「これなら任せてください!」って、胸を張って言えることが、見当たらない。
本当にないのか、自信がないのか…
そういえば、昔からどちらかというとある程度までは飲み込み早いけど、突き抜けてうまくは慣れなくて、あれこれやって、みたいな感じだったような。
オールマイティーというか、器用貧乏というか。
小学校教員は、それが活かされるところでもあったわけだけど。
最近は本に手が伸びなくなっていたけど、また読んでいこうかな。
積み重ねが自信にもなるはず。
今は読みたかった本たちが読まれずに積まれているけど。
社会って、なんだろう。
先日、こどもたちに残したい社会を考える機会があった。
自分は、「幸せだと感じられる社会」とか、「誰もが素でいられて、認め合える社会」なんかがいいんじゃないかなぁと思っていた。
でも、話をしていくうちに、疑問が湧いてきた。
社会って、その場にいる人たちで作っていくもんだよな…?
その場にいる人たちが、お互い不自由なく、ルールとかを作って、形成されたものが社会だよな…?
なんか、今って、誰かの作った社会があって、そこで生きていくために教育している気がする。
こどもの意思よりも大人の正しさを優先してしまっている気がする。
だから指導がいきすぎたり、すれ違ったりする。
まぁ、すでに社会は存在してしまっていることには変わりはないんだけど、その社会はその当事者の社会であって、こどもたちの社会ってまた別にあるんじゃないのかな。
社会って、ひとつじゃない気がする。
時間軸が違うと言うか、パラレルワールドというか。
そうなると、こどもたちに社会を「残す」って言うのも、もしかしたら違うのかもしれない。
強いて言うなら、「こどもたちが大人になりながら作る社会を邪魔しない社会」を作っておくことが、今の社会を生きる大人たちのすることなのかもしれないと思った。
全肯定
最近、ふりかえりをさぼってしまってました。
ようやく職場にもなれてきて、やれることが増えてきたと同時に、意識することが増えてちょっとキャパオーバーになってたのかもしれません。
させなきゃ病が出てました…
否定的な見方になってました。
他のスタッフとも話しつつ、自分を見直す。
あかんかったなぁと反省。
どうしたものかと。
そんな中、先日こどもたちと自然の中で遊んでいると、フラフープわなげが始まりました。
1年生だとあまり投げれないので、的の人や竹馬まで届かず、「おしいなー」と精一杯フォローしてました。
べつに悔しがってもいなかったけど。
けれど、3年生が手に持っている竹馬をのばして、
「とどいた!オッケー!!」
これか。今の自分に必要なのは。
1年生だからオッケーにしたのか、そういうルールでしようとその子の中で思っていたのか、どんなことを考えてそう言ったのかはわからないけど、わなげは棒に輪を入れないといけないと思い込んでいた自分に気づきました…
いや、わなげはそういう遊びなんだけど、そうでなきゃいけないとは決まってない。
「〇〇とはこういうもの」と固定概念に縛られていたなぁ。
勝負してるわけでもないし、当人たちが楽しけりゃオールオッケー。
全肯定。
この3年生を心から尊敬しました。
Noという権利
日本人は基本的に嫌だと言えない人が多いように思う。
あくまで、自分が見たり聞いたりしている話の中でだけれど。
けれど実際、日本の学校ではこどもがNoを言える場面は少ない。
やることは決まっているし、やらないと怒られることもある。
今の職場ではNoを言えることを大事にしている。
大人も、こどもも。
けど、何でもかんでもNoを言って好きなことしかしないのでは、集団やコミュニティ、社会としては成り立たない。
ある人はYes、ある人はNoという。
じゃあ、どうするか。
そこから対話が生まれていくのかな。
そう思うと、公立の時は楽をしてしまっていたなぁ。
教員もやることが決められてしまっていて。
それをこどもにやらせるだけ。
そんな簡単にNoなんて言えなくて。
やると決まっていることに関しては、こどもの気持ちなんて考えてなかったんだなぁ。
最終的にはやらせると決まってるんだもん。
まずは聞く。
同じように、聞いてもらう。
まずは受け入れる。
そして手放す。
うまくいかなくたっていい。
人はゆっくりと変わっていくものだから。
ふりかえる。あしあとを。
新しい職場になりました。
これまでとは全然違う環境。
公立とは全く違って、ゆるい感じ。
きっと、公立の先生が見たら、ゆるすぎるとか、甘いとか、そんなのでまともな大人になるのかとか言いそう。
自分だって、これで大丈夫なんだろうかと心配になることはある。
まだ3日しか働いてないけど。笑
公立の感覚が染み付いちゃってるなーとも思う。
毎日が新しい出会い。
きっと、慣れていっちゃうのかなと。
だから、振り返る。
ときどき。
あしあとを残そう。